自宅に戻ってからも。
妻と男の関係は、まだ続いているようだった。
こちらが単身赴任を終えたからといって、
向こうもつごうよく、同時に終わり・・・というわけには、いかないのだった。
妻は時おり、夜遅く戻ってくる。
そういうときには、子どもをマサトの実家に預けて、心置きなく愉しんでくるようだった。
どちらかというと華のない女だった妻は、どこかで”開花”したのだろうか。
夜もしつように求める夫のまえ、ためらいもなく服を脱ぎ捨てて。
ぬるりとした裸身を闇に溶かしながら、高められた感度のまま、濃艶な媚態をあらわにするのだった。
今夜も美佐枝は、真っ暗な部屋に戻ってきた。
ただいまあ。
だれにいうともなく、つぶやくと。
灯りを点けようとして、手探りでスイッチをさがす。
スイッチをさぐりあてようとした手を、だれかの手が抑えつけた。
きゃっ。
悲鳴を上げて飛び上がると。
おれだおれだ・・・
過ぎた悪戯に頭を掻き掻き、マサトは部屋の灯りをつける。
帰り・・・早かったのね。
さすがに後ろめたさにしどろもどろになった妻を尻目に、
飯は食ってきた。シャワーも先に使ったよ・・・というと、
妻のことを目で、浴室に促した。
美佐枝はハンドバックをそのへんに置くと、浴室に向かった。
濃いブルーのストッキングの脚が、ひどくけだるそうだった。
どす黒い衝動が、マサトのなかを駆け抜けた。
後ろから妻を羽交い絞めにして、首に腕を巻いて、その場に押し倒した。
きゃ・・・
短い悲鳴はそのまま、もだえ声に変わってゆく。
下着検査だ。おまえ、浮気してきたな・・・
ひそかな呟きを、心の奥に秘めながら。
マサトはすこし前までほかの男を相手に熱をもった女体を、撫でくりまわしていった。
自宅に戻って半年、しばらくは出張もない生活がつづいた。
未知の男との、妻を通しての奇妙な同居関係は、そのあいだもずっと、つづいていた。
妻が時おりそわそわと、出かけるタイミングを見計らっているようすをしているとき。
わざとこちらから、水を向けて。
予定、入っているんだろ?今夜は子どもを連れて、実家で晩飯でも食おうかな。
そんなさぐりに、浅ましいほどかんたんに引っかかった妻は。
いそいそと身づくろいをして、出かけていった。
そういうときにはいつも、これ見よがしに。
生地は薄いけれども、濃い色のストッキングを脚に通していて。
透きとおる艶の向こう側、白い脛を妖しく淫らな色に染めるのだった。
女もののストッキングというものは、時にひどくイヤラシイ装いになるらしい。
生地の色に薄っすらと染まった脛は、淑やかにも、上品にも映ったけれど。
それと等分なくらい、淫靡な色をしていた。
妻に愛人を持つ夫の目は、まさぐるような視線で、
妻の後ろ姿を舐めている。
自分の留守中、忍び込んで。
ひっそりと妻を抱きすくめ、犯してゆく男。
聞こえないほどの小声で、妻を呼び出して。
押し殺した空気のなか、獣のように狂おしく襲いかかって、妻を狂わせる男。
あの女体を。さほど性には執着しなかった女体を。
どうやってあれほどまでに、狂わせることができたのか?
見映えのしない、かつては素朴すぎた妻のしぐさに、どうやってあの色香を添わせることができたのか?
妻の秘奥を抉っているやつの一物は、オレのものよりも奥まで届いているのだろうか?
人知れず妻の生き血を啜っている未知の男に、マサトはいつか親近感さえ感じはじめている。
妻に愛人を持つ立場―――
まるで持病のようなものだ・・・と、自嘲してみる。
持病というやつは、さほど重たくなくて、すこしばかりの忍耐ですむものならば。
かえって居心地よく、同居できるものであるらしい。
おなじ病をもった夫婦を、オレは東京に見知っている。
久しぶりに、東京の現地妻だった冬美の面影を、なつかしく思い浮かべていた。
東京の事務所は以前とおなじようにせせこましく、ざわざわと居心地が悪かった。
雑然とした匂いのする久しぶりの都会の空気に、へきえきしながらも。
マサトは勤め帰りの雑踏のなかに身をゆだねていた。
自宅に戻って半年して。
東京勤務の経験をかわれて、時おり長期の出張が入るようになったのだ。
そのほうが。妻も、かれ自身も、居心地がよいのだ・・・と、
まさか会社の人事ファイルに書いてあるはずはなかったのだが。
月に1、2度訪れるようになった贅沢な息抜きに、マサトはしばらくぶりの開放感に浸っていた。
気がつくと。
あの街に来ていた。
いまは、金曜の午後。
早めに引けた仕事の後、その足で札幌に戻って、週末を妻子と過ごしてもよかったはずなのに。
足はしぜんと、飛行場から遠のいて。
聞きなれたあのもの憂い、うらぶれた通勤電車の轍に、ぼんやりと耳澄ませていた。
ごみごみとした駅前の雑踏は、あのときと変わりなく、埃まじりのにおいがして。
かの女に声をかけられたときのまま、微雨のなかにけぶっていた。
○○銀座と書かれた古ぼけたアーチも、陳腐なたたずまいのアーケードも。
あのときのままだった。
ひそやかに熱し、ため息したあの身体が、ふと恋しくなっていた。
ふたりきりで過ごした、朝の静かな食卓も。
そして、家を出ていくときの、あの問いかけも。
今夜は何時に、戻られますか・・・?
女はそういって、彼の帰りを待ち受けてくれた。
かの女の夫は、まだ単身赴任中なのだろうか。
そろそろ戻ってくる・・・そういっていたような気もする。
交わした言葉のはしばしが、意外なくらい記憶の彼方に飛んでいることに少し驚きながらも。
入り組んだ道順をたがえずに、あのさびれたアーケード街を通り抜けていた。
かの女の棲む古ぼけたアパートも、あのときのままに。
いっさいがっさいを封じ込めたみたいに、室内の暗がりをカーテンの裏に押し隠している。
窓辺に滲んだかすかな灯が、季節にしては肌寒い外気にさらされている身に、ひどく暖かそうに映ったとき。
男はもうがまんできなくなって、なんども足踏みをくり返した階段を、ためらいなく昇りはじめていた。
カンカンと無機質に響き渡る錆びた鉄製の階段の音が、かの女の幻影に近づいてゆく。
ぎょっとした。
階段を昇りきった、踊り場に。
男がひとり、廊下に佇んでいた。
まるで通せんぼをするように、スラックスの足を伸ばして。
それがかの女の夫だと気づくのに、たいした時間はかからなかった。
かの女と同年代の、そしてマサトよりも目に見えて年若い男は、眩しげに彼を見あげて。
「妻に逢いにいらしたんですか?」
しごく、ていねいな口ぶりだった。
・・・ご主人ですか?
そういうのが、やっとだった。
見知らぬ男のさりげない言葉つきにずばりと差された図星に、致命傷を負ったみたいになって。
まんまと自白剤を嚥(の)まされたスパイのように。
マサトはどこまでも饒舌になりそうな自分を、自覚していた。
なにを云われるのか、と、いぶかっていると。
「残念ながら・・・先客ですよ」
男は自分の妻を犯しに訪れたはずの相手に、むしろ共犯者のようにイタズラっぽく笑いかけて。
肩をすくめて見せたのだった。
そっと指差した窓越しに。
かすかな声が、洩れてくる。
さびれた商店街には不似合いなくらい、新しい喫茶店の照明は明るかった。
真新しい灯りのそらぞらしさに、お互い身を隠すすべを失った影法師のように、肩をすくめあって。
男ふたり、うずくまるようにして、ほろ苦いコーヒーを啜っている。
シンヤと名乗る、かの女の夫に。
「妻がお世話になっております」
礼儀正しすぎるほど、きちんとあいさつされて。
マサトは居心地悪そうに、出されたコーヒーを啜り込んだ。
お世話になっている。
いったいどんなお世話を、目のまえの男の妻にしたというのだろう?
「あ・・・いえ、どうか。ご遠慮なさらずに」
むしろ恐縮したのは、かの女の夫のほうだった。
今夜のお客さん。長距離トラックの、運転手でしてね。
月の29日に、ちょうどここに立ち寄るんです。
初めて顔を合わせたとき、ちょっとやばかったんです。
何せ、密会の真っ最中に、それとは知らずに戻ってきたものですから。
宅配屋さんですよ。
妻が、能面みたいな顔をして。
落ち着いた口調でしらじらしい嘘を吐(つ)いたとき。
ああ、なるほどな・・・って、思ってしまったんですよ。
ふつうなら、われを忘れていてもおかしくない状況なのに。
妻のことに無関心になるほど、夫婦の愛情が薄れたつもりもないのに。
なぜかすんなりと、妻の嘘を呑み込んでしまっていたんです。
まるで、甘い毒でも嚥(の)み込むみたいに。
わたしはタバコを買ってくるから・・・って。
あたふたと、その場を逃れてきて。
それからまる一時間というもの、家には戻りませんでした。
いや、正確に言うと・・・
玄関の前までは、戻ってきていたのです。
別人のようななまめかしい吐息が、おわったとき。
わたしはあきらかに、別の種類の男に入れ替わっていたんです。
うふふふふっ。
思わずくすぐったくなって、笑みを浮かべると。
オレは相手の肩をぽんと叩いて。
じゃあ・・・ご同類、というわけですな。
今ごろわたしの女房も、男を引き入れている時分なんですよ。
直接やり取りはしなくても。
お互い相手のスケジュールは、なぜか分かり合っている間柄ですからね・・・
覗いたり、なさるんですか?ボクは声だけで・・・それ以上は勇気ないです。
ははは。どちらがすぐれている・・・ということはないですよ。
だってあなたは、声だけで昂ぶることができるんだもの。
目のまえの男の顔には、しずかな安堵の色がただよっている。
ごいっしょしますか・・・?と訊くかの女の夫に。
視たらほんとうに、嫉妬しそうだ。
そう呟くと。
だからこそ。妻もあなたを朝までいさせたんでしょうね。
かの女。
初めて迎え入れた貴方のことが、まだ忘れられないようですよ。
あしたの晩。
夫婦で食事に出かけることにしていたのですが。
ドタキャンしようと、思うんです。
もういちど。かの女のお客様に、なっていただけますか・・・?
あとがき
番号は、通し番号にしましたが。
これは「東京レンタル妻 2」の続編です。
http://aoi18.blog37.fc2.com/blog-entry-1465.htmlかなり前に、ほぼ書き上げていたのですが。
なんとなく、あっぷしそびれていて。
ちょっとまえに、すこし直して。
いつもとはちがった刻限に、あっぷしてみました。